御田重宝『特攻』:「華」が「散」るのではなく、ひとが死ぬこと | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

御田重宝『特攻』:「華」が「散」るのではなく、ひとが死ぬこと

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御田重宝『特攻』 (講談社文庫)
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本書はタイトルどおり「特攻」について書かれている。それを描くのに際し、たとえば出撃する青年の視点から綴ることもできるだろうし、また技術者の見地から叙述を進めることも可能だろう。さらには用兵側も同様である。

しかし本書はそういったある立場から見た「特攻」なるものを叙述するのではなく、「誰が、いつ、どのようにして“国家意思”としての『特攻』を決定したか」を追うことが主眼となっている。したがって上述のような立場をそれぞれ必要に応じて織り込みつつ、「特攻」がいかなる手続きを経て実施されていったのかが問題となっている。

文献、資料の調査、証人たちへの聞き取りから作者が到達した結論は以下のようなものである。

日本がマリアナ海戦に敗れたころから、軍の前線指揮官の間に“体当たりしてでも”という意識が芽生えはじめ、これが下級士官、下士官兵に波及し、上層部を突き上げる形で実施された

妥当な結論といえるだろう。神風が大西瀧治郎の創意によると考えているひとはもはやいないはずだが、ではその発端はいかなるものであったかというと、まだまだ曖昧である。少なくとも本書でも明らかにはされていない。ただ軍令部が「特攻」なるものをもともと戦術として考えていたことは本書でも随所に紹介されており、「青年」たちの意気を兵器として回収したのが「特攻」とまずはいえるだろうが、そういった意志とは関係なく、いつの日か特攻は軌道に乗ったと考えてよい。

本書でもいくつか取り上げられているが、特攻にもさまざまな種類がある。海軍による神風、陸軍の九九双軽などを用いた面子争いの産物としか思えない特攻もある──なお陸軍特攻については、高木俊朗の最高傑作といえる『陸軍特別攻撃隊』(文春文庫)を強く推しておく──。また震洋や回天、桜花もそうだし、本書に叙述はないが、蛟龍や伏龍も含めてよいだろう。神風、すなわち爆戦などを用いるそれが青年の志に素直に由来するものだとしても、それ以外の兵器はどうだったのだろうか。

いまさらだが指摘しておきたいのは、「特攻」という名でさまざまな散華のあり方やその差異を蔽い、ただただ情緒的な存在として超世代的に「日本国民」を実体化する装置となすならば、それは悪しき意味においてまさに「特攻」に課せられたものだったということである。

レイテと連動した初期はまだしも、戦術的に効果が認められなくなってからの惰性的反復、たとえば赤トンボでの特攻にいかなる意味がこめられていたというのか。散華の精神を認めることと特攻の様相を抉ることは、また別なのである。それらを混同してはならない。特攻はただただカミカゼであり、海軍も陸軍もなく、とにもかくにも散華としてのみとらえるひとが多いことは事実であり、そういった「ロマン主義」への回収を拒絶するためにも、まだまだ本書のような一編は重要といえる。特攻とはさまざまな形容を捨て剥き出しにさえすれば、まずはひとの死なのである。「華」が「散」るのではなく、ひとが死ぬことなのだ。

★★★★☆
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