丸山真男『日本の思想』を読んだ・2 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

丸山真男『日本の思想』を読んだ・2


W.リップマン
世論〈上〉』(岩波文庫)
W.リップマン
世論 (下)』(岩波文庫)
網野 善彦
日本論の視座―列島の社会と国家』(小学館ライブラリー)

丸山は「である」論理に基づいた社会として江戸期日本を例にあげる。そこでは何を「する」かよりも、大名やら農民やらといった身分的属性により、人間関係が規定されるとし、そこでは予め「である」という各人の「分」が決定されているがために、互いがなにものであるかを検証することが少ない。

したがって、もともと髷の結い方、屋号、名前などで相手の身分が確定している以上、たとえばひとびとの集まりで、ルールや共通の土俵をつくるといった努力をしなくとも何となく話し合いが進み、滞りなくなあなあでものごとが進むということになる。

逆にいえば、「である」が前提されない赤の他人同士の組織においては、未知の相手と円滑な関係を結ぶために、ルールやモラルが必要となる。これがよくいわれる「公共」とかいうやつの基本的な考え方といってよい(なおこのような日本における「分」のありかたを、本書では儒教との絡みでさらっと触れるだけだが、実は天皇制における「官位授与権」と密接に関係しており、没落君主に過ぎなかった天皇が戦国期以降も存在しえたのは、ひとえにここに要因がある。新書の限界はあろうが、この点については少しでも叙述してほしかった。これに関しては、手っ取り早いところで網野善彦『日本論の視座』が簡明である)。

ちなみに何々「である」と何かを想定する際、20世紀以降のメディアの発達により、自分が直接体験できないものがほとんどといった状況においては、イメージを通じて確定されるほかない。そのイメージ形成をつかさどるのがメディアである。そしてそれを仲介して作られ、流通するようになった強固なイメージのことをウォルター・リップマンは「ステレオタイプ」と呼んだが、いわば「である」論理とは、現代においては「ステレオタイプ」を疑わない態度であるといい換えてもよい。さらにいえば、本書第三章「思想のあり方について」で登場する「タコツボ型」という考え方は、この「ステレオタイプ」が流通し、自足してしまっているような組織のありかたをいう。

しかしながら生産力の向上、交通の発展など社会関係が錯綜するとともに、未知の人間同士の関係が必要となってくる。したがって組織なども「である」だけで済ますわけにはいかなくなるのだ。したがって人間は、固定したひとつの身分ではなく、社会に多数存在する組織や制度内においてそれぞれの役割を演じることとなる。つまり、そのひとのすべてが没入するのではなく、組織で「期待」されている「役割」に応じて、自身を切り売りしてゆくような人間関係へとシフトしてゆく(いわゆる「役割理論」というヤツで、いまのところ色々な流派が派生しているわけだが、ここらへんに興味のあるひとは、とりあえず創始者ミードを読まなくてははじまらない)。

つまり近代社会の特徴である会社、政党といった「機能集団」が中心を占めるようになるということは、身分に基づく社会に代わり、何かの目的のために必要とされる関係や制度の重心が増加することにほかならない。したがって、「である」から「する」への移行こそが、ある意味での「近代化」なのである。

彼は川端康成の『女であること』を例にとり、日本においては「女性」の役割が比較的固定しているがゆえに、女性のイメージを「ステレオタイプ」化して、つまり「女『である』こと」といったイメージを形成しやすいと指摘する。逆にいえば、女性が男性とまったく同程度に色々な社会的役割をこなしていれば、「女『である』こと」は成立しないだろうと。この丸山のちょっとした見解は、現代フェミニズムに圧倒的な影響を与えている、ジュディス・バトラーのアルチュセールとデリダを混ぜて、プラトンを批判しているかのような『ジェンダー・トラブル』なんかと比較するとおもしろいかもしれない。
※「」へ続く。


G.H.ミード
精神・自我・社会』(青木書店)
ジュディス バトラー, Judith Butler
ジェンダー・トラブル』(青土社)
川端 康成
女であること』(新潮文庫)

Luxury Mail