西村京太郎『脱出』(講談社文庫) | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

西村京太郎『脱出』(講談社文庫)



西村 京太郎
脱出』(講談社文庫)

海の警部だった十津川が陸にのぼり電車の付属品のようになってしまう以前、西村京太郎は日本でも屈指の探小の書き手だった。

たとえば十津川初登場作品にして、最重要容疑者がヨットレースに参加していたというとんでもないアリバイで十津川に挑戦する『赤い帆船』、クリスティの『そして誰もいなくなった』に挑戦し、随所に京太郎らしさを出しながら、単なる模倣に終わらない山荘本格の傑作『殺しの双曲線』、明智小五郎、ルパン、メグレ、クイーン、ポアロといった名探偵を登場させつつも、しっかりと密室も構成したパロディものの『名探偵が多すぎる』や、孤島裁判ものという前代未聞のジャンルを創造し、それがまたすばらしくサスペンスに富んだ本格へと昇華する『七人の証人』、誘拐ものの発想を完全に逆転させ、ほとんどスラップスティックなブラック・ユーモアさえ漂う『華麗なる誘拐』など、それこそ枚挙に暇はない。

そんななかでも、本書はかなり上位の作品である。別段、際立った謎があるわけではないが、人種差別をうけ日本に絶望した殺人者の若者をなぜ通りがかりの人が救おうとするのかという謎から、鋭く人種差別、過激派の不毛さを暴き出す所などまったく見事だ。

一応、whodunitも効きそれなりに謎→解決という構成をとってはいるが、何よりも逃避行と脱出の過程が見事に緊張感をもち、まったく飽きさせることがない。ただし西村京太郎のややセリフの多い文体でタイムリミットものの醍醐味はうせた気もするが。

しかし本書は、西村京太郎の鋭い社会・歴史への問題意識を表現した一作で、たとえば23年ぶりに再会した陸軍幼年学校の同窓生たちが、戦時中、米軍の爆撃で燃え盛る校舎に銃剣を取りに戻り、焼死したかつての仲間の死に隠された真の意味を探ってゆく「23年目の夏」(『マウンドの死』所収)とともに、彼が凡庸な「社会派」を一頭地抜きんでていることを見事に証明している。

近年の冗談のような作品を読むのもいいが、それだけで京太郎を評価してしまうのは早計だろう。彼は尊敬に値する偉大な作家である。そのことは本書を含め、上述のどれを読んでも簡単に納得してもらえると思う。

初版:1971年8月 カッパ・ノベルス
★★★★☆