大井篤『海上護衛戦』:「これではもう護衛はできんね。君、一体、これからどうすればいいんだ?」 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

大井篤『海上護衛戦』:「これではもう護衛はできんね。君、一体、これからどうすればいいんだ?」



大井 篤
海上護衛戦』(学研M文庫)

戦争といえば、主として物理的なそれのみを考え、数値にあらわれることもなく、即座に効能も発揮しないような要素を軽視しがちな日本軍の特性がよくわかる一編である。

よく海軍の合理性、陸軍の非合理性といった対比がなされるが、護衛という観点や船舶の使用から見るならば、どうも後者のほうが「合理的」なようである。作者がいうように連合艦隊による決戦思想──大艦巨砲主義なる海軍への批判は、必ずしも正確ではない──こそが海軍の病、戦争を単純な軍事力のみで遂行できると考えがちだったところから護衛が軽視されたように思われる。

いうまでもなく総力戦とは、国民国家時代の戦争であり、経済や政治といった「国家」総体によるそれである。どうやら海軍は、そして陸軍もだが、総力戦が「国民」の誕生と相即することを認めたがらないようで、職業軍人のみで戦争を遂行しているという選良意識が極めて高い。したがって彼らにとり国民とは選良により指導され涵養される存在でしかなく、明治時代の周到なナショナリズムの育成によって開発された国民の「愛国心」に胡坐をかき、生産力という観点からのみ国力を計っていた。

体制による宣伝活動も生産と国力へ結びつくがゆえになされたのであって、積極的な何ものかとはいいがたい。たとえば「大東亜戦争」における思想の空疎さ貧困さはただごとではない。あのようなもので国民が動くはずもなく、ひとは単に勝った負けたで国家を翼賛したのである。操作対象として国民をみなしているならば、まずは彼らの腹を満たし総力戦への自発的服従を促さねばならなかったのだが、体制は空腹を「大御心」で満たそうとしたといえようか。その意味で、逆にいえば護衛とは軍事に関する物資のみならず、総力戦の基礎でもあった。それをおざなりにしたのは、彼らがとにかく目に見える軍事的勝敗から思考を開始していたからだろう。

兵站や護衛を戦闘に比して俗事とする選良たちの思考は、国民を非選良とみなす感覚と接続している。戦争を軍事のみでなしうるという「決戦」思想は、選良の自己意識と相即するのである。総力戦の思想とは、いうなれば選良の否定であり、職業軍人の価値を相対的に低下させることにほかならない。物資を供給することで人心を安定させ、さらに兵站を円滑に作動させる護衛は総力戦に必須である。しかし総力戦とは実は軍人にとっては否定すべき戦争形態であり、護衛はその意味でも軽視される。

本書からこういった感想を抱くのはうがちすぎかもしれないが、海軍の異常なまでの護衛への無理解は、太平洋戦争を考えるうえで前提としなければならない。本書を読むことで、戦史への視点が変化することは間違いないだろう。絶版になったようだが、太平洋戦争に関心があるひとは真っ先に本書を手に取るべきである。

初版:1953・3 日本出版共同
★★★★☆
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