「海洋文学を書いてみよう」:半藤 一利『レイテ沖海戦』(PHP文庫) | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

「海洋文学を書いてみよう」:半藤 一利『レイテ沖海戦』(PHP文庫)



半藤 一利
レイテ沖海戦』(PHP文庫)

昭和45年=1970年、大阪万博で日本が沸き立ち、アメリカではマイルスがゲイリー・バーツやキース・ジャレット、チック・コリアなどを引き連れてジャズの流れを激しく動かしていた時期に出版された半藤の初期作品で、もともとは吉田俊雄による海戦にいたるまでの作戦計画の叙述があった由だが復刻された本書では削除され、完全に半藤の単著となっている。

あとがきを読んでみると「海洋文学を書いてみよう」という意気込みが当時あったと回想されているが、その試みが世評とは異なり本書の価値を大いに落としていることは間違いない。たとえば次のような箇所である。

ようやく夕暮れが訪れてきた。傷ついてミンドロ島近くの島陰に憩う早霜、後続する藤波の二隻の駆逐艦をのぞいて、小沢、栗田、志摩の三艦隊の生き残った艦艇のほとんどが、敵機の行動半径の圏外の海に離脱することに成功している。まだ潜水艦からの攻撃の脅威は去らないというものの、おもむろに紅にそまりゆく海と空の青はかれらをやさしく迎えいれた。いや、外国語では船は女性名詞である。かの女らと書くべきかも知れない。鳴りやむことのない砲声と銃声はおさまったのである。(中略)もはや戦闘艦ではない。その優美な艦形は女性代名詞で呼ぶのがふさわしいのか。しかし、悲しい船列である。生き残った将兵たちにとっては、愛しいと書いてカナシイと読むべきかもしれなかった

端的にいってへたくそである。これではブログで自作の詩や小説と思しきものを発表している勇者たちと大差がない。しかもこの感慨は話者以外の誰のものでもなく、「レイテ沖海戦」といった「歴史」を題材とするにはまったく必要のないものである。

「歴史」を描くということの困難さはつねに語られていることだが、たとえば以下のような部分は本書をドキュメンタリーではなく、へたくそな「海洋文学」へと傾斜させていることに注意しなければならない。

ついに決戦場とはならなかったレイテ湾では、マッカーサー大将も、キンケイド中将もオーデンドルフ少将も、九死に一生を得たC・スプレイグ少将も、だれもかれもが眠ることを欲していたことであろう。しかしかりに眠れたところで、あわただしい夢に悩まされ、すぐに目覚めてしまう。戦場の夜とはそうしたものである

座りの悪い文章であるが、とりあえずマッカーサーなどがとにかく眠りたがっていたとする前段の箇所は、確かに「であろう」と話者の推定を示してはいるが、wikiならば[要出典]と書かれてしまうはずである。

しかし半藤が本書をあくまで「海洋文学」であり、「レイテ沖海戦」をモチーフにしたフィクションであるというのならばこういった書き方も許容されるだろうが、おそらくこれはノンフィクションである。禁欲せねばならない。たまたま目に付いたところを引っ張ってきたが、このような危ない叙述が本書には散見されるのである。

半藤は非常に優秀な書き手である。たとえば『ノモンハンの夏』がすばらしい傑作であることはいうまでもない。しかしながら同様に本書も傑作であるとは到底いうことができない。文章のこなれなさもあるが「歴史」叙述の胡乱さも本書には潜んでいるからだ。

だからこそ、たとえ理由は「昔の文章に対する嫌悪」からだろうと、本書の復刻を渋ったという半藤の良識は評価されてよい。別段、復刻に値するとは思えないのが正直なところである。

ちなみに歴史をいかに書くか或いは歴史小説とは何かについては、大岡昇平と井上靖のあいだで展開された「『蒼き狼』論争」を読むと、何となくわかった気分になる。この論争の様相は『大岡昇平全集〈15〉評論〈2〉』に収められている。

★★☆☆☆


大岡 昇平
大岡昇平全集〈15〉評論〈2〉』(筑摩書房)
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