ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』



ウォルター・J. オング, Walter J. Ong
声の文化と文字の文化』(藤原書店)

本書はタイトルどおり「声の文化」と「文字の文化」の差異を論じて名著の誉れ高い一編だが、とりあえずここで論じられているのは、われわれが普通に「文化」という語から受け取る感じとは少々異なり、アナール派がいうところの「心性」、もしくは英米系の人類学者が用いる「共有される観念や感性の体系」といった意味でのそれである。したがって価値的な含意はなく、声から文字へといった「近代」化論の視点を本書に見出すのは無意味である。

さて、知とは記憶と想起である。そして伝達もしくは交換されることに、その意義がある。その点を注視することにより、声と文字の文化の差異が見出される。

声の文化は、文字の存在しないそれである。したがって知は声により伝達されるしかない。声は運動であり、ひとたび聞き逃せば取り返すことは不可能である。したがって伝達されるべき重要な知は、幾たびも繰り返され、その内容は話し手と聞き手の双方が共有する知を基礎としなければならない。つまり声の文化において知は共同的である。これは声の文化において、知が精神の外に一度に与えられるものとしては存在しないことに由来する。

逆に文字の文化では、知をストックしそれを可逆的に受け取ることができる。文字は、発信者と受信者が同一の場所、時間にいあわせる必要をなくし共同的な知を解体する。声の文化における発信者は、共同体が培い伝達してきた知を、他者にもたらす語り部であった。したがってそこではまず記憶とその再現に重点がおかれ、記憶を容易にするための冗長な反復、類型的な登場人物、生活に密着した具体的な情報が際立つ。たとえば叙事詩と呼ばれるものは声の文化の産物である。当然「作者」という観念は存在しない。あるのは「知」のみである。

文字としての知は、物質として完結し諸個人が自由にひとりで対峙するものとしてあらわれる。共同体における人間関係とは乖離し、声の文化の諸特徴であった、冗長、類型的、具体的といった性格は失われてゆく。記憶と再現を重視しないこと、つまりテクストを自由に可逆的に往来することが可能な「読者」は、分析的な思考を獲得してゆく。過去からの伝達、忠実な知の継承といったことは重要でなくなり、新規な何ものかを「発見」することに価値が見出されるようになる。そのために「作者」「読者」双方に抽象的かつ分析的、そして共同体から無関係な「知」が尊ばれ、ここに諸学は発生することとなる。

いま現在われわれに憑く文字を読むことに伴う感性を、声の文化を注視することで徹底的に相対化し、文字の「効果」を読者に強烈に意識させる傑作である。上記の簡潔にすぎる雑文以上に豊富な「知」、たとえば構造主義、「ポスト」構造主義などを文字の観点から考えること、メディア変容と相即する感性のありかたなどを含み、いままで常識だと思っていた「読書」と「知」について強烈な反省を強いる一編である。マクルーハンが読みにくくてしょうがないといったひとも本書はぜひ紐解くべきだろう。もちろんこれを読めば初期の前田愛に手が伸び、「感性の歴史」派からフーコーへといたる、壮大な物質としての「知」をめぐる旅へと繰り出したくなることは間違いない。

いまさらいうまでもないことだが、読むことにより自身のパースペクティブが変容することが傑作の条件である。そして冗長を恐れずに繰り返すが、本書はその意味で間違いなく傑作である。

★★★★★

Walter J. Ong
Orality and Literacy: The Technologizing of the Word (New Accents)
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