吉田 和明『文学の滅び方』 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

吉田 和明『文学の滅び方』



吉田 和明
文学の滅び方』(現代書館)

大仰なタイトルであるが、非常にシンプルな視点のもとに書かれた文学史。或いは文学入門。

その視点とは、文学とは「自由主義、個人主義思想」に裏打ちされた「近代的人間」によってはじめて担われるものであり、それなしに文学は存在しないというものである。したがって「近代」以前に文学は存在しない。

このようにいってのけると、「じゃあ近代ってなんだよ」という話に当然なるわけだが、作者はこのとてつもない大問題を、個人の問題にひきつけることで説明する。すなわち自己と他者の差異を認識した上での後者への感情移入、社会の複雑性の発展による数多の役割を生きることで獲得するであろう自己を相対的に見つめる視点が、近代の兆表である。いうなれば、他者と「わたし」の差異、社会における「わたし」という認識に支えられ営まれるものが文学であると。いわば「主体」の存立と文学は即応している。

この観点から、彼は日本における文学の始点が『浮雲』『舞姫』『内部生命論』にあるとする。個々の作品の読解については先行研究にかなり依拠しており常識的なものとしかいえないのだが、それらを貫くものとして作者が見出すのは二葉亭のいう「意」である。


凡そ形(フーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依つて見はれ、形は意に依つて存す」(「小説総論」)。


有名な一節であるが、とりあえず現象を支持する本質を「意」としていると考えればよい。作者はこの「意」を追求する「主体」の営みが文学であるというのである。前述の著作はその試みであったと。

もちろんこの読みは別に問題があるわけではない。しかしながら彼は「小説総論」において二葉亭が「自然の法則」と「小説の現象」を区別し、「論理に適はぬ」後者を「言葉の言廻し、脚色の模様によりて、此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、(中略)文章活ざれば意ありと雖も明白なり難く、脚色は意に適切ならんことを要す」と小説における「形」の問題に心を砕いていたことをやや看過しているようである。

したがって「主体」の確立からのみ近代文学史を検討していく本書が、的をさほど外していないにしても「形」──文体や描写の問題だけでなく、「意」を表象する物質、たとえば書籍の形態、印刷、イラストの有無なども含まれる──の問題を軽視することは、胡乱なのではないだろうか。このような「主体」の問題から「近代」を考える視点が、文学のみならず他の領域、たとえば社会学史や経済学史でもほぼ常識的に前提されていることを考えるならばなおさらである。

逆にいえば、文学の読解から日本に「主体」が確立したとするのは可能なのだろうか。福田恆存のごとく、そういったものがそもそもありえたのかと疑義を呈する人間もいたわけで──彼は「近代」化については懐疑的なんだが──、単純な「文学史」の常識と変わることのない始点をもってきた挙句、そこから「主体」は成立したと素朴にいってのけるのはあまりに単純すぎる。

しかしながら、逍遥から白樺派までを扱った文学史として抜群に読みやすいことは間違いなく、入門書と看做すならば価値はある。

★★★☆☆
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