「自分の純真さを腹立たしく思いました」:文藝春秋編『人間爆弾と呼ばれて―証言・桜花特攻』 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

「自分の純真さを腹立たしく思いました」:文藝春秋編『人間爆弾と呼ばれて―証言・桜花特攻』



文芸春秋編,元神雷部隊戦友会有志協力
人間爆弾と呼ばれて―証言・桜花特攻』(文藝春秋)

桜花特攻のために編成された元神雷部隊隊員たちの回想やインタビュー、一問一答形式のアンケート、親機である一式陸攻乗員たちへの同様のアンケートに(ちなみに本書にて一式陸攻単独での特攻を知った)、おそらく本書ではじめて陽の目を見た野中五郎率いる第一次桜花攻撃隊出撃をとらえたプライベートな写真など、見所が多い一編である。

桜花とは何か。それについては非常に力の入った記事となっているwikiの該当ページを一読すればその概況を理解できるだろうが、要はタイトルどおり「人間爆弾」である。一トンを超える爆弾に乗り、敵艦へと突入する兵器だと考えればよい。

元隊員たちの回想やアンケートを読み、戦争は絶対に繰り返してはならない、しかし神雷部隊での生活は糧となったという感想があまりにも多いことに気づく。愕然とする。しかし自らを取り巻く環境のなかで「必死」に生きたということ、それを否定することなど当人には、ましては他人にはできないわけであり、それについて何かの批評を、たとえば組織のあり方だの戦術面からの批判といったものを差し挟むのは難しい。いや、そんなことは簡単である。たとえばアンケートで次のように書き記している人物がいた。

特攻という戦法をしてはならない。
  これは命が惜しいから言うのではない。いかに命令だといっても、これは確実に士気を弱める結果になります。
  生還するな! 帰ってくるな! というのは命令服従を強制する軍隊であってもしれはならぬ。
  普遍的な言葉で言えば、『電車の安全地帯に居るヤツが何を言うか』という気持ちになる。参謀や司令官はその心配がない


もっともな意見である。しかしこれと同じことを外にいる人間が、時間、空間を問わず「安全地帯に居るヤツ」がいってのけることなどできるのであろうか。

というのも、掩護戦闘機なくして桜花特攻など無意味でしかないという批判は、当時の隊員たちにとってもほぼ自明のことであった。野中四郎の実弟、野中五郎の桜花批判は有名である。しかし彼は第一次攻撃の際、桜花にて戦死した。抗命することなく死んだ。たとえ不条理であろうと「必死」であろうと、死ぬまで生きるという当たり前のこと、われわれにとっては余りにも希薄となっているこの事実、それを全うしてきた人物たちを見ながら、何かの批評を差し挟むことは可能なのだろうか。

たとえば本書のカバーにある、桜花に搭乗した隊員がもつ山桜を見る。或いは死に飛んでゆく一式陸攻と桜花へ地上から手を振る隊員たちと、野中の発案による「南無八幡大菩薩」の揺らぐ幟を見る。また、佇む隊員の腰にお守りがぶら下がっているのを見る。そう、必ず死ぬということは、生を蔑ろにすることではない。死ぬまで「必死」に生きる、それだけのことなのだ。山桜や幟、お守りだろうと何でもよい。それが彼らの生を彩ったならば。

国家により「必死」へと追いやられたことを看過しているわけではない。そのような国家は最悪である。そしてそのうちで生き生きた人々、彼らが国やクニを守ろうという意志により死へと向かったことを単純に斬って捨てることができないのと同時に、あまりにも真摯であったひとびとを兵器へと変容させる、かの大日本帝国への鈍い怒りが湧き上がる。ひとびとの叙情を編成するという国家のありかたへの怒りと困惑。本書の数々の写真を見ながら、自分でも整理のつかぬ感情を未だに抱いている。

★★★★☆