丸山眞男『日本の思想』を読んだ・3 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

丸山眞男『日本の思想』を読んだ・3

丸山真男『日本の思想』を読んだ・1
丸山真男『日本の思想』を読んだ・2

「である」論理・価値から「する」論理・価値への移行は、社会の全領域で均等に起こるものではない。たとえば会社とは利益をあげることを目的とした「する」論理に基づく機能集団のひとつだったが、ほとんどの会社では年功序列制と終身雇用を基礎としていた。確かに技術革新のテンポが比較的緩やかだった過去の日本では、年を経るごとに能力が増加するということもあっただろう。しかし最近では、一年どころか数ケ月もすればころころと会社を取り巻く環境は変るわけで、その意味で年俸制の導入は時代に見合っていた部分もあるといえる。

もちろんキャノン(=観音)のように会社をひとつの家族として考える企業も根強く存在し、さらには年俸制を採用している企業でも、年俸査定の困難さなど問題が百出した点で、年功序列が見直されているのが現状だろうか。

ちなみに日本の高度成長を支えた要因はこの年功序列制にあると最初に指摘したエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(阪急コミュニケーションズ)が去年復刊した。もちろん城繁幸『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』(光文社)が馬鹿売れしたことに対応した出版だろう。

しかし丸山も挙げているが、日本ではたとえそれが業績により獲得した地位であろうと、職能関係とは「身分」のごときものである。会社社長とその社員がプライベートでは対等だという考え方はさすがのベンチャーでもまだもち得ない価値観ではないだろうか。

したがって一見すると、もっとも強力に「する」論理が貫かれているように思われる企業ですら「である」論理の影響下にあるならば、政治や文化などそれぞれの領域での「である」論理から「する」論理への移行が、不均等に行われていると推測してもよい。しかもその各領域内における移行も均等ではないことに注意しなければならない。

重要なのは、実はここからである。各領域ごとに不均等な移行があるとすれば、それぞれに前述した「測定」を行うべきなのである。そしてこの一編で丸山が撃つのはもちろん政治の領域である。彼は政治の世界に「する」論理を適用した場合、それがどのようなものとなるかについて、次のように書いている。

指導者の側についていえば、人民と社会に不断にサービスを提供する用意であり、人民の側からは指導者の権力乱用をつねに監視し、その業績を絶えずテストする姿勢をととのえているということになるわけです

日々新聞、ニュースで流れ、そして生活する中で実感するさまざまなことをふりかえり、この丸山が描くがごとき「政治」はいかなる程度まで実現しているだろうか。この文章は約50年前に書かれたものだが、彼の指摘する「政治」の健全なありかたは、なにひとつとして顕現していない。

たとえば今度の補選に際して、公明党を政教一致の憲法違反の党だと批判していた山崎とかいう男が創価票のためになりふりかまわず、もう二度とこんな無体なことはいいませんと学会の九州方面のトップに懺悔したわけだが、これなどは何か建設的な仕事をしたか或いはしそうかといったことよりも人脈やコネで議員が選出されるという、「である」論理・価値に基づいて政治が運営されていることの典型的な例といえよう。

しかし誰が見てもすぐわかるようなこういった馬鹿げた状態を批判するためだけに、丸山の指摘する測定装置を使うのはもったいない。むしろ政治に限らない日常でもよくあるものごとの見方を撃つためにこそ、この装置は効果を発揮する。そして、その装置の使用法こそが、この一編における最重要の論点なのである。

これについて丸山は「である」論理・価値に基づいてひとや国家を見るならば、それらの行動や付随するものまでが、「である」論理・価値によって決定された前提によって判断されてしまうと記している。つまり偏見をもつと、その対象のすべてがマイナスの様相を呈してくるといったことであり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というヤツである。

この危険性は、現在の世界情勢を見れば瞭然だろう。たとえばこのたびの中国のデモ及び暴行は、日本の国政と日本人を完全に混同している。日本人「である」という論理にズルズルベッタリなあまり、各日本人が何を「する」かという具体的な行動などについての判断が欠落しているのである──もちろん、この緊迫した状況下で靖国参拝を敢行する連中の集う政党、山崎が正しく指摘した政教分離に関して憲法違反の疑いのある某創価党などを、嬉々として与党に据えている日本「国民」なるものは、議会制の建て前からも連帯責任を負わねばならないのだが。

或いは北朝鮮に対する一部日本人の蔑視を考えてみてもよい。それらはつねに「である」論理に由来した、いいかえれば培ってきたステレオタイプなイメージの限界内でのみ思考し判断するという状態である。

ところで、丸山はこの「である」「する」図式を使用して、近代日本について以下のように総括を加えている。

日本の近代の『宿命的な』混乱は、一方で『する』価値が猛烈な勢いで滲透しながら、他方では強じんに『である』価値が根をはり、そのうえ、『する』原理をたてまえとする組織が、しばしば『である』社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです

とりあえず日本思想史に興味がなくとも、これまで述べてきたことからある程度はこのことが納得いくと思う。そして「である」論理による判断が、ときとして性急かつ危険であることは了解できるのではないだろうか。くりかえせば、ステレオタイプなイメージ、先入観によって眼を曇らせることなく、つねに具体的な過程を観察することで判断を下すべきだという、きわめてあたりまえのことをいわんがために、この論文は書かれたといってよい。

つけ加えるならば、何々「である」と限界を付すことなく、「する」という行為と思考の束として、自分をとらえることも大事なのではないだろうか。男だ女だ会社員だ無職だ金持ちだ貧乏だ日本人だ中国人だ云々ではなく、何を「する」のか、いかに「する」のかということの過程と結果から、自己とはとらえられるべきであり、そしてまわりのひとたちに対しても同様の視点から関わってゆくこと。さらに自分やひとのことを、何々「である」と限界付けるのではなく、何々「する」何々したというところから、プロセスや状態から判断してゆくことこそが、この一編にこめられた精神の線上にあるのではないだろうか。


丸山 真男
日本の思想』(岩波新書)
エズラ・F.ヴォーゲル
ジャパン・アズ・ナンバーワン』(阪急コミュニケーションズ)
城 繁幸
内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』(光文社)

Luxury Mail