丸山真男『日本の思想』を読んだ・1 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

丸山真男『日本の思想』を読んだ・1


丸山 真男

日本の思想』(岩波新書)

現代において丸山を読まんとするひとが彼のことを「戦後民主主義のイデオローグ」と前提しているとも思えず、ただことあるごとに出現するその名が脳裏に刻まれ、この薄い本ならととりあえず本書を手に取り、だいたい本文の5ページ目あたりの細かい注記にめまいを覚え、そのまま本を閉じ再び日常に帰ってゆくのがよくある光景だと思うが、この本、どう考えても最後の二編から読むのが正解で、そこで提出された考え方を実際に近代日本思想史に即して展開したものが前半部の論文といえる。

その意味で、最初から読まねば気がすまないという完ぺき主義者には、本書は非常にきつい。何しろ前半部分は、常人が一読してそのまま理解できるとは思えないほどの難解さである。というか、最低限の近代日本思想史と文学史の知識が要求されるからである。

ところが後半の二編は、頭をつかってゆっくりと読めば必ずわかる、前提条件をまったく必要としないもので、丸山を読みたいというひとがいたら、わたしは必ず本書の後半部分を勧めている(最近も一昨年あたり日銀総裁に就任した福井俊彦に丸山眞男はすごいと散々吹き込まれたらしく、知人がしきりに丸山、丸山と連呼するのでとりあえず本書を勧めておいた)。

さて後半の2論文のなかでも特に最後の「『である』ことと『する』こと」という一編から読むのが賢明である。ある意味で、これを読むだけでも本書の効能はあったといえるような代物なのだ。

では、この論文はいかなるものなのだろうか。実はその答えは意外なところに明記されている。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(日本国憲法第12条)

つまりすでに何々「である」というかたちで、鎮座ましましているものを押し頂いているだけではダメだということ、何かに対する「不断の努力」こそが肝要であるということが、この一編のいわんとするところであり、この主張にさまざまな味付けをしてゆくのが、またおもしろいところである。

味付けといえば、丸山は「である」と「する」を概念実在論と唯名論といいかえつつ、それらをさらに次のように説明している。

プディングのなかに、いわばその属性として味が内在していると考えるのか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います

つまり実際に食べずとも、もともと美味「である」と前提してこと足れりとするのか、それともそいつが美味「である」かはわからんと、実際に食「する」ことで、美味か否かを判断するという違い。これが社会組織などの「価値」を判定する二つの極を形作るのだと。

先の憲法の例でいうならば、

この憲法が国民に保障するものは自由及び権利「である」

しかし

国民の不断の努力によつて、これを保持「する」

ということになる。つまり憲法で「保障」されているからとって、のんべんだらりとあぐらをかいているだけではなく、「不断の努力」によってはじめて、それら「自由及び権利」は「保持」されるんだということである。

さて、ではこの「である」「する」によって、「社会組織や人間関係や制度の価値」をどのように考えてゆくのだろうか。彼はこの「である」論理及び価値が、「する」へとシフトするところにいわゆる「近代」を見る。つまり「である」に基づく血縁関係や地縁に基づいた人間関係を基礎とした社会から、目的を目指して動くという「する」論理による組織が中心を占める社会へと移行するのだと。

しかしながら、こういった社会変動論的な視点を提出して歴史を見るというだけではさほどの意味はなく(つまり社会変動を論じて満足している、富永健一とかいう学者の某一派はそれほど存在価値がない)、上記の二つの論理と価値がつねにその比率を変えながら、あらゆる時代と地域の「国家」において機能していることを意識することで、具体的な判断の道具を手に入れることになる。丸山の言葉を引用すれば、

具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣のギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます

ということである。そしてこれこそこの一編における結論の伏線なわけだが、もう少し本編を読み進めてみよう。
※「」へ続く


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