狂った世界の狂ったロジック:山口雅也『生ける屍の死』 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

狂った世界の狂ったロジック:山口雅也『生ける屍の死』



山口 雅也
生ける屍の死』(創元推理文庫)

死者が次々と甦る世界のなかで、いきなり死んでしまう主人公。もちろん「生ける屍」として甦るわけだが、墓の町トゥームズヴィルを支配する葬儀屋の家長と長男の死を探求するに際して、このことが大きな伏線となる。

先日紹介した有栖川有栖『双頭の悪魔』(創元推理文庫)とは対極の作品で、「殺しても甦るにのなぜ殺人を犯す必要があるのか」という非「常識」的な物語世界の文法を自分で構成してゆくために、さまざまな手法が使われてゆく。

特に死を異常な事態ではなく、あくまで身近なもの、いわば生と死は等価であるという世界観を読者に浸透させてゆくために、あまたのスラップスティックや一見ぺダンティックとも思しき議論などを駆使し、いよいよ探小らしくなる第二部に入る頃には、この死者が甦る世界にまったく違和感はなくなる。

この自分で創造した文法の限界内でみごとに構築されるロジックは、まさに伝統的な本格探小そのものであり、突飛な世界観にまったく負けていない。というよりも、この世界観がなくては成立しない本書の緻密なロジックは、まさに主人公が「生ける屍」であるがゆえに解明されるのである。

自ら文法を創造した探小を書くとは、必然的に本格の形式を相対化することだが、換言すればジグソーパズルのピースのみならず、その枠から作り出してゆくということであり、すでに「社会」によって構成された「枠」に依拠して書かれる数多の本格探小とは異なって、作者により物語が外部から支配されることが明瞭になる。

たとえば作中で、脳が死んでいるにも関わらず肉体が動き、そもそも思考が可能なのはなぜかという議論が登場するが、それは作者が彼らの存在をそのように要請しているからである。

本書における「物語の主人公」がなぜ死ななくてはならないのかという呟きは、自分が物語内に存在しているにもかかわらず、何かの悪意によって自己の存在が動かされていることの主人公のかすかな自覚にほかならない。捜査に協力するタナトロジーの教授はそれを「神」と呼ぶだろうが、その「神」こそが物語を支配する「作者」なのである。彼らが活動する物語自体を創造したのだ。「作者」が「神」であるのは自明のことである。

ジョージ・ロメロと深沢七郎、野坂昭如をかき混ぜたごとき世界観に、クイーンばりのロジックを付加したこの作品は、「本格」という形式の極度の自覚と相対化によって形成されている。本書の解説で法月綸太郎が強調するのもそのことであり、彼の解説は現代において本格を書くとは、こういった「形式化の意志」をも考慮しなければならないという宣言にほかならない。もちろん、このことは後期クイーンが名探偵と神の問題で直面していた事態であり、法月はそれを洗練させて論じるのだが、山口はこの「本格」の形式化の問題を、本書においてみごとに提示したといえる。

初版:1989・10 東京創元社
★★★★☆