葉山 嘉樹『セメント樽の中の手紙』:「さうして焼かれて、立派にセメントとなりました」 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

葉山 嘉樹『セメント樽の中の手紙』:「さうして焼かれて、立派にセメントとなりました」

葉山 嘉樹
セメント樽の中の手紙 (角川文庫)

葉山が長野県の水力発電所建設現場のタコ部屋でものした、プロレタリア文学、モダニズム、探小を横断した何とも奇妙かつ鮮烈で、異様な印象を残す一編。

セメント工が機械のリズムに合わせてせっせと働いていることが、ほぼ等間隔に打たれる句点によって表現され、鼻毛にぶら下がるコンクリートは、「セメント樽の中の手紙」の結びにある「あなたも御用心なさいませ。さやうなら」の伏線となり、しかもヒューモラスなイメージを喚起しながら、鼻の穴すら自由にほじくれない労働の現状が浮かび上がる。

この一編は、「セメント樽」からその「手紙」を発見した労働者が、その「手紙」にあるセメントとなった男の悲惨な末路に向かって自身も進んでいることを、「彼の鼻は石膏細工の鼻のように硬化したやうだつた」からはじまり、彼の首に巻きつけられた弁当箱、踏みつけられ砕かれた木の箱などから予感させるのだが、さらに

私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せてゐるのですわ! あの人は棺に入らないで回転窯の中へ入ってしまひましたわ

という「手紙」の書き手の悲鳴は、労働者の環境があたかも冗談であるかのごとく、比喩であるかのように見えながらも厳然たる事実であることを指摘しており、いわばこの一編で周到に対置された比喩の数々は、すべて労働者の環境が倒錯したものでありながらも、それを逆転しうることを示している。なぜならば比喩とはそれらが断絶しながらも等価であることを意味するからだ。もちろん含意されているものは、革命による「回転窯」での死から「棺」を使いうる安楽な死への移行である。

ほかにも「破砕機」「回転窯」によって「立派にセメント」となった彼女の恋人が劣悪な労働条件の犠牲者であるならば、手紙を拾った労働者は「細君の大きな腹」を使用することで「七人目の子供」を作ってしまっているのであり、それは「細君」の身体を使用する立場に彼が位置すること、つまり「回転窯」を所有する資本家と彼の位置が対応しているなど、おもしろい仕掛けが色々とある一編なのだが、何はともあれ5分もあれば読める掌編である。

ここにてすぐ読めるので、一読してその奇妙な味を堪能するのも一興ではないだろうか。

初出:1926・1『文芸戦線』
★★★★☆