彼にとり「常識」とは何だったのか:清水幾太郎『常識の名に於いて』 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

彼にとり「常識」とは何だったのか:清水幾太郎『常識の名に於いて』


清水幾太郎『常識の名に於いて』(古今書院)1940
清水幾太郎著作集4: 常識の名に於いて・心の法則 他』(講談社)所収

1935=昭和10年から1939=昭和14年にかけて、新聞や雑誌などに発表された時論やエッセイを収めた1冊。すでにこの時期、清水は唯物論研究会を脱退しており(唯研自体が、1938年2月12日に解散しているのだが)、デューイ思想の洗礼を受けてマルクス主義を完全に清算している。したがって、本書では、初期のマルクス主義の立場からの「社会学」批判は見ることはできない。本書で見られるのは、表題どおり「常識の名に於いて」清水が縦横に時局を批判する姿勢である。

しかし本書には政治などに介入する文章はほとんどなく、あくまで新聞や雑誌の読者層に向け、たとえば現今の小説ブームから、15年戦争の状況をろくに報道しないジャーナリズムに代わって、「リアリズム」小説が求められているとか、礼儀に欠けた人間がこのところ多いと憤懣をぶつけているかと思いきや、最後にはこのように礼儀知らずの人間が「大東亜共栄圏」でも同じ振る舞いをするならば「新秩序」など覚束ないなどといった、日常から政治へと遡行し「常識の名に於いて」政治を批判する多数のエッセイを収めている。

端的にいって実に巧みである。そして時にはなかなか思い切ったことも断言している。たとえば昭和14年『東京朝日新聞』に発表された「茶の湯と生花」では以下のように書いている。

古い日本が世界中の人々に依つて広く愛されてゐることは明かであるが、それと同様に明かなことは、新しい力としての日本が殆ど全世界から憎まれてゐるといふ点であり、もう一つ確実なことは、今更古い愛すべき日本を幾ら示して見ても、それで新しい日本に対する憎しみを帳消しにすることが出来ないといふことである

この「憎しみ」は翌年の日独伊三国同盟締結で決定的になるわけだが、彼の定見はこの時点で正鵠を得ている。ちなみに昭和14年は、乱歩「芋虫」が発禁になり、探偵小説らしい探小が壊滅をはじめる年でもある。昭和13年にはそれでも赤沼三郎『悪魔の黙示録』が発表されるが、それ以降は空白が目立つようになる。この前後、海外では『そして誰もいなくなった』『大いなる眠り』『ユダの窓』『黒衣の花嫁』『十二人の評決』といった傑作が続々と発表されていたことを思い合わせると、日本の余裕のなさは一目瞭然である。

さて、清水が批判精神を発揮しているのは本書で明らかになった。これだけを読めば、ギリギリの地点から体制を批判した知識人ということもいえるだろう。しかし、かつての家族国家観=有機体的国家観というイデオロギーを、マルクス主義から激烈に批判する態度は完全に消失している。それまでの清水は講座派の観点から、日本には未だ個人主義としての「市民社会」が成立しておらず、まずは有機体的国家観を基礎とした大日本帝国そのものを批判すべきであるとしていた。

しかし本書に現われているのは、体制の消極的容認に基づいた、それへの皮肉でしかない。つまり「新体制」「共栄圏」自体に関しては一向に批判の刃が向くことはない。これを見て清水を抵抗の知識人と考えるのは明らかに行き過ぎである。戦後の日高六郎や鶴見俊輔による清水礼賛は、体制の根幹を前提している点で皮相ともいえる彼の実相を見ていないのではないだろうか。

本書は確かにそれなりの批判能力を発揮している。しかしこの程度の批判で、彼を礼賛するわけにはいかないのである。

★★★☆☆